絵本体験の原型はどこにある?2つの短編小説の紹介

僕が生まれた家の本棚

僕が生まれた家の本棚には、会社の資料、農業新聞、農業に関する雑誌が、山のように詰め込まれていました。

両親は忙しく会社を経営(農業資材関連)していました。父はほとんど事務所で仕事をしており、母は仕事の合間に夕食を作り、また事務所へ。僕は姉と兄と3人でご飯を食べました。

僕たちは3人兄弟は、小学校から帰ると、勉強をして、夕食を食べ、テレビを見ました。風呂に入り、歯を磨き、眠りました。

当時読んだ絵本が、今の自分につながっている。 

その感覚はありません。

図書館が好きな子どもの読書遍歴

僕は図書館が好きな子どもでした。

さらに言うと「世界とは何か」に対する直接的な答えを、本に求めるようなタイプの子どもでした。

小学生の頃には、芥川龍之介や夏目漱石などの明治~大正期の小説を読み始め、中学生には世界文学ヘ。ミングウェイ、ドストエフスキー、トルストイ、ヘルマンヘッセ。

高校時代には、歴史書、哲学書を基本とし、東洋思想の孔子、孟子、老子。ギリシャ哲学。日本の明治維新を知るための司馬遼太郎。「日本語で考えること」について知るため、埴谷雄高、鶴見俊輔、吉本隆明を読みました。

大学生時代も歴史書と哲学書を読みながら、ラテン語系の言語修得の道を進むことになります。

この遍歴が示す通り、小さいときから「心に残る絵本」がありません。

 そもそも、絵本と関わった体験があまりないのです。

僕にとっての絵本の定義は「絵を喚起する本」

さて現在、二児の子どもと妻と生活する僕にとっての絵本とは何か。 

・起点は、ビジュアル表現によらないことが多い
・起点は、テキスト群であることが多い
・結果、絵(映像・イメージ)を喚起する
・状態として、自分自身の内部で、絵(映像・イメージ)がリピートする
・継続的に、自分の中で自然と繰り返され、更新されるストーリー

つまり

・個人的に、継続的に、絵を喚起する本

これが僕にとっての絵本の定義です。 

例えば、ドストエフスキーの「悪霊」。

16歳の時に読んで以来、全く読んでいません。ですが、それでも話の雰囲気を体の感覚で覚えている。そして、それを思い出す。細部が曖昧になりながら、自分の想像力が補填しながら、自分独自の全体像を保ったまま、思い出されること。

その行為は、ビジュアルデザイン化されたイメージを思い浮かべるというよりは、「あなたの中で自由に想像してください」という表現方法を受け取って、生まれるイメージ。そして、それは再び、自分の中で想起され、補填、更新される。

では、そのような特性をもった僕が好む「絵を喚起する本」とは何でしょう。
以下、2つの短編小説を紹介します。

「Fat(でぶ)」 レイモンド・カーヴァー著

レイモンドカーヴァー著、Fat(でぶ)。 

大学生時代に、村上春樹さんの翻訳で知ったアメリカの作家、レイモンドカーヴァー。その中でも、今も繰り返し読んでいる短編小説です。

アメリカの田舎のレストランで働く女性。彼女はある水曜日の午後に、とても太った上品な男性を接客した。彼女は後日、女友達に、そのときに感じたことを話し始める。とても太った上品な男性の話は、そうではない話であることを発見する。

20才くらいに読んだ小説ですが、今でも、僕の頭の中だけで、そのイメージは何度も繰り返されます。理由も分からないまま。

「南部高速道路」 フリオ・コルタサル著

1914年にブリュッセルで生まれ、ブエノスアイレスで育ち、パリに移住したフリオ・コルタサル。ラテンアメリカの幻想小説というジャンルを築いた人物です。

僕はこの作家を17才のときに知りました。

以下は、彼の「南部高速道路」という短編小説のあらすじです。

フランスの夏の高速道路。

郊外からパリへ向かう高速道路では、長い渋滞が起きている。まったく車が進まないので、車に乗る人々は、お互いを少しづつ知るようになり、交流が始まる。車から下り、会話を行い、恋が生まれる。食料の交換。病人の介護。それは暑い夏の1日の出来事のはずなのだが、季節が移ろい始める。だれも気づかない形式で。

その、
・だれも世界のあり方を疑わないこと
・美しい幻想
・夢の中にいる感覚

それは今でも、僕の中で映像的に再現されています。

「絵本体験の原型」はどこにある?

僕は、視覚的な情報に対して、全幅の信頼を寄せて日々生きているタイプの人間ではありません。

2022年9月時点の私たちが生活している文明。その文明が私たちに提供する「膨大な量の視覚情報」の価値は、量と正比例するほど大きくはない、と個人的には考えています。

なぜなら、

・私たちが所有する「可処分の情報処理能力(速度と分量)」は有限
・私たちが所有する「可処分時間」は有限
・そしてそれは、「人間の視覚認識と数の論理に依存」している

からです。

むしろ「視覚化できないもの」「数値化できない柔らかさ」そういったものの全体像を、個々の営みを通して明らかにし、「個人的な価値定義」を先に行ったほうが、異なる豊かさの実現には近いのではないかと考えます。

・時間化がむずかしいもの
・数値化がむずかしいもの
・知覚が難しもの
・言語化すると逃げてしまうもの
・なかなか言い当てることができない場所
・イメージが生まれている場所
・個人的体験のみによって近づくことができる

そこにこそ、いわゆる幼少期の「絵本体験の原型」がある。
機能として、絵本はそれらを示唆する。

それは、生まれたばかりの何かかもしれません。
あるいは、死に近い何かかもしれない。

ただしそこでは、何かのサイクルに従って、つねに何かのイメージが発生している。

その場所こそが、個々が独自に所有する炎のありか、だと思います。


そして絵本は、視覚を含み、独自の経路をたどって、個々の見えない炎のありかを、いつまでも指し示しているように思えます。