他人の映画のようなバイオグラフィー。
- 第一期1980〜1996年、15才の春休み。コペンハーゲンと高校退学・1980年:山形県に誕生
・1986-1990年:過食症状
・1990-1992年:小学校 不登校
・1996年:ドイツ、デンマーク農業視察旅行(11日間)
・1996年:高校退学。言語障害
- 第二期全寮制の高校3年間。自覚的な怒りとコントロール・1997-1999年:全寮制の農業高校。稲作を学ぶ
・1999年:大学進学を決める
- 第三期大学での7カ国語独学。日本語への嫌悪。言語障害と記憶困難・2000-2004年:言語障害と記憶困難の症状が進行
・2000年:大学入学 スペイン語スペイン文学科。7カ国語独学の開始
・2003年:詐欺師と家業引き継ぎの消滅
- 第四期アルゼンチン滞在。言語生成の観察・2004年:京都市でリノベーションのアルバイト
・2004-2007年:アルゼンチンのコルドバ市に滞在。5カ国語学習
- 第五期飲食業。妻との出会い。ヘルニアと子どもの誕生・2008-2012年:京都市滞在。飲食店勤務、店長職
・2011年:結婚
・2012年:第一子誕生。ヘルニア発症。飲食業からの撤退。
・2013年:書籍のためイラストを納品
- 第六期接客販売からWeb制作会社への移行・2013-2016年:アクセサリー店勤務。実店舗店長職
・2016年:第二子誕生
・2016-2017年:Web制作会社へ就職
- 第七期遅々とした開示の始まり・2018年:Webサイト「記憶と翻訳」開始
・2018年:ライティングゼミ受講
・2019年:百人一首の100句を英語に翻訳する活動を開始
・2020年:百人一首の100句を英語に翻訳完了
Contents
第一期:1980〜1996年、15才の春休み。コペンハーゲンと高校退学
7才ごろから過食を繰り返していたぼくは10才で病気になり、ついに小学校に行かなくなった。残りの2年間を玄米食による食事療法に費やす。
体調を整え、中学校に入学。両親からの学業へのプレッシャーと、もう一度不登校してしまう可能性への恐怖感に追われながら、3年間を過ごした。
中学校を卒業し、進学高校に入学を決めたぼくは、春休みの期間、コペンハーゲンにいた。父の知り合いが主催したヨーロッパの農業視察旅行に同行させてもらったのだった。
英語はまったく分からなかった。有機農業を実践する農家や、ワイナリー、大学を回った。受験に合格するための英語学習は、やはり、現地でも全く通用しなかった。
でも、身体の底からワクワクした。
もっと英語を吸収したい。
そして世界のことをもっと知りたい。
でも、飛行機に乗って日本へ帰るぼくは、まだなにも知らなかった。
初めに、努力してやっと入学した進学校を8日目に退学した。そして1年間、自分の部屋で歴史書と哲学書を読んで暮らした。あれだけ好きだった詩も小説も読まなくなり、絵は描けなくなった。まわりに、ぼくを理解するひとは一人もいなかった。
そしてこう決意する。
15年かけて、回復しよう。
それを、最も緊急で重要な目的に設定しよう。30才まで、ひとりの人間として、普通に生活できるようになること。そして、ぼくは全寮制の高校を受験し、合格する。実家を出て、3年間の寮生活を始める。長い季節が終わる。
第二期:全寮制の高校3年間。自覚的な怒りと一瞬の繋がり
問題解決には、長期的展望が必要だった。
なぜなら、長期間強いストレスを受け止めていた結果、ぼくの思考は二つに分かれてしまっていたから。まともにものを考えることが、以前のようにできなくなっていた。
映像を想像することができなくなり、同時にそれまでのように普通にものごとを考えられないようになった。ものごとを言語を通して理解することに、驚くほど時間がかかった。
その時から、頭の中に2人の人物がいるようになった。1人は考える速度が速く、論理的で、批判的な人物。もう1人は、言葉を知ったばかりの2才児のように、ゆっくりと言葉を探し、考え、決断した。彼にはひとつひとつのことを、とてもゆっくりとしか決められなかった。
しだいに「視覚の意味」や「色彩の意味」「物語の意味」が分からなくなり、最終的には味覚・触覚・聴覚・嗅覚・視覚・記憶がぼくに提供するものの意味が全く分からなくなった。
ぼくは「自分が使うことができる単語」をひとつひとつ探し出し、積み木のように組み立てては壊す作業を開始した。
その作業は、今も日常的に続いている。
1年年下の同級生たちは、とてもいい人たちだった。クラスとしても、まとまりのある、よい学年だった。でも、ぼくは、それ以上にひとりで何とかしなければいけないものが多すぎた。
禅の本を読み、哲学書を読み、玄米食を実践し、呼吸法を学んだ。精神と体と呼吸のコントロール。「自分をコントロールする」という目標を黙々と達成する日々。
両親は農業資材を販売する会社を経営していた。ぼくは農業高校に入学するときに「家業を継ぐこと」を自分で決意する。それはいつまで経っても解決できなかった。その矛盾の感情を押し殺していた。
あるとき、ぼくの心を見透かすように、英語の先生が「継ぐの辞めたらいいいじゃん」と言う。それは、コントロールされたぼくの心をかき乱し、全てを変える。呼吸法による中庸も。玄米食による平安も。禅による世界の統一感も。
「あんたは、大学に行って、もっと世界を知った方がいい」
その教師は何かを見透かすようにぼくの目を見る。
二つに分かれていた思考回路が、ほんの一瞬、ひとつに繋がり、すぐに離反する。15才にコペンハーゲンで感じたことを思い出す。ほんとうにぼくが求めていることを再開しよう。
高校3年の2学期、両親を説得する。
母は泣き、父は理解しなかった。
第三期:大学での7カ国語独学。日本語への嫌悪。言語障害と記憶困難
世界と語学に対する深い関心をスペイン語習得に向ける。
大学に入学し、スペイン語を学び始める。ひとりの友だちもできないまま、一日10時間以上、語学漬けの日々を送る。授業でスペイン語を学び、アパートでは独学で7カ国語を学んだ。頭の中から、本気で日本語をなくそうとしていた。
ぼくは、日本語に強く嫌悪感を感じるようになっていた。10代を通して、過剰な自己規制を課していたぼくの精神は、どんどん日本語を受け付けなくなっていた。そして、記憶を想起することも難しい。さらに、物事を映像化することもできない。
テレビや映画を見ると息苦しくなり、頭の中の圧力が高まるのを感じた。
自分で作った強固な部屋に閉じ込められるように。
また、
・ベトナム帰還兵の心的外傷と回復
・アルコール依存症の回復プロセス
・アドボケーター
・幼児心理学
について学んだ。
両親の家業をだれが継ぐのか?という根本的な問題は解決できていない。
父も母も、結局ぼくが会社を継ぐと期待したままだ。
そして第三期は、両親の会社とぼくが詐欺師に騙されることで終わりを告げる。会社は多額の借金を背負い、ぼくは自分を決定的に信用できなくなる。そして会社は、不思議な経路を通って姉夫婦が継ぐことになる。
そのようにして23才のぼくは、糸が切れた風船のように空へ放たれる。虚ろな自己認識とともに。
何度やり直せばいい?
23才の精神と肉体は、疲れ切っている。
だからこそ、そこには自分の感覚を信じる以外に道はなかった。
「言語と想像力の関係性を理解すること」だけが生き続けるための意味だった。
これから、精神的に摩耗した箇所を、機能不全の認知傾向を、乏しい自己信頼を、回復させていこう。
これまでよりもさらに深い水準で
10年以上かかるだろう。
20年以上かかるかもしれない。
そこでは他者比較の意味はゼロで、過去の自分への全身的な理解と、未来の自分との対話のみが方向性を指し示す。
第四期:アルゼンチン滞在。言語生成の観察
大学を卒業すると、リノベーションのアルバイトで貯金し、アルゼンチンに向かった。目的はスペイン語を学ぶこと。もっというと「日本語を介さずに」スペイン語を学ぶこと。
成人した人間が、母国語を使わずに、いかにして外国語を習得していくのか?
そのプロセスを体験すること。
アルゼンチンでは複数の外国語専門学校に通った。現地のアルゼンチン学生に混じり、スペイン語の説明で、英語やフランス語などの言語の基本を学んだ。
ぼくは「愛」という言葉の意味がわからないのです。なぜなら「愛」という言葉の概念は外国からやってきたものだから。
彼女は少し間をおいて、悲しそうに笑った。
すると、隣の席に座る60代の白髪の男性(生徒)がこう言いう。
「愛」なんてただの言葉だよ。自然に感じるものさ。それはアルゼンチンでも、ブラジルでも、日本でも、今も昔も変わらないと思うよ。
先生は静かにうなずいた。
ぼくが手にいれたもの。
それは、
日本語で無口な人間は、スペイン語でも無口である
という、きわめて当たり前のほかの人にはあまり役に立ちそうもない結論と
自分の中に育った「親イメージとしての言語体系概念」
という、自分にだけ見える小さな種の萌芽だった。とても遠い場所に移動して。痛みを伴って。
【アルゼンチン留学】ほかの人にはあまり役に立ちそうもない結論と、自分にだけ見える小さな種の萌芽
第五期:飲食業。妻との出会い。ヘルニアと子どもの誕生
喫茶店で働いているとき、ある先輩コーヒーをドリップしながら言った。
島津さんは、歩く教科書みたいですね。
なぜなら、15才から言語的外傷をかかえながら、社会に出て、伝わる言葉で日本語を話し、職場で成果を出すには、その前の段階で「2人の自分に対して分かりやすく説明する」必要があったから。
30才を過ぎたころから「15才のときの頭の中の2人」は、以前ほど明確に人格の形を取らなくなった。だが、その跡を包むためにぼくは15年間変形し続けてきた。
「常に自分自身に対して説明しなければ何事も理解できない状態」は今も変わっていない。
飲食業界に属している時期に妻と出会い、ヘルニアになり、第一子を授かった。
【コーヒー】個人的コーヒー豆焙煎史。無関心から「尊敬すること」と「新しい世界」へ
言語障害・転職・出会い
第六期:接客販売からWeb制作会社への移行
2012年、ヘルニアになったことをきっかけに、実店舗集客のコア機能としてのwebに関心を向けた。それ以前から、いつまでも好きなコーヒー豆の焙煎だけをしていればいいわけではないことを、店舗に立ちながら実感していたから。
そこで自分のキャリアを少しづずスライドさせながら、Web業界に転職することに決める。
→接客の基本:ホール
→調理
→店舗運用(店長)
→コーヒー豆の焙煎プロセスの言語化
→レシピ開発と効率化
↓
アクセサリー店での接客販売
→接客販売の基本
→店舗運用(店長)
→接客プロセスの言語化とマニュアルの作成
↓
Web業界への転職
→HTMLとCSSの基本
→Photoshopの基本
→Wordpressによる記事更新
→コンテンツ制作:SEOライティング
→SNS運用:Facebook、Instagram、Twitterの投稿
→広告運用:SNS広告運用(Google/Yahoo広告ディレクション)
→Webマーケティング
→広義のマーケティング
第七期:遅々とした開示の始まり
このWebサイト「翻訳と記憶」は、翻訳を通して、記憶と言語を共存させることを目的として、2018年に運用を開始する。自分自身や大切な人と対話を重ねていく空間として。
2018年6月、会社の仕事で必要なスキルだったためライティングゼミを受講。その後、仕事でSEOライティングを実践し、再現性も確保できるようになった。
またそれは、別の側面からも一つの到達点だった。
読者がいる場所に自分が参加できるようになったという「個人的な心的回復の実感」。15才から言葉を失った者として。その後の23年間を生き残ってきた者として。
なつかしい未来へ。遠藤朝恵さんとの出会いと和歌翻訳の始まり
希望の朝の迎え方(無口な少年が百人一首の翻訳プロセスを語るようになるまで)
これから。その街灯がある街に
19才から40才の21年間。
語学的な成長速度は自分が期待する以上に遅い。
でも、今の視点で「英語の基本構造」や「SVOの分析」を理解すること。そこには、15才のぼくでは感じることができなかった種類の喜びがある。
かつての亡霊はもういない。様々なつまずきと停滞のあとに、それでも愚直に、遅々とした一歩を繰り返してきたからこそ見える世界を、今のぼくは見ている。
懐かしい未来の映像を何度も再生することができる。
自分を赦し、生き残ったことを深く肯定することができる。
最初の街コペンハーゲンで生まれた意志。それは今も消えずに、この街の夜を照らしている。
その街灯がある街に、今ぼくは暮らしている。