パスタの神様に祈るためのパスポート申請は、どのように受理されたか?

「あと6カ月でお店辞めるんで、あとはお願いしますね」

先輩の佐藤さんが、まかないの食器を洗いながら言った。

「大丈夫! あなたならやれます。真面目だし」

そう言うと、佐藤さんは笑った。

佐藤さんは30才の女性で、結婚式の準備を着々と進めていた。彼女には「自分の喫茶店を持つ」という目標があり、それを共にできる人に出会ったのだ。

「というわけで、引継ぎ、始めましょうね」

「はい!」

それからの6か月間、引継ぎという名の恐怖の日々が始まった。

 

土曜日の午後12時30分、ぼくは、パニックになっていた。

「島津さん!オーブンのバケット、焦げてませんか!」

「島津さん!今ソーセージを焼くんです!」

「島津さん!コーヒーはもうまとめて4人分淹れてください!」

30席ほどの喫茶店が一週間で最も混む時間帯。

佐藤さんは、ホールに出てお客様をさばきながら、ぼくの厨房の回し方に指示を出す。ぼくは自分が今、一番先に何をしなければならないのか、まったくわからなかった。

「島津さん、どいてください。替わります!」

店が回らない、という判断。フライパンを佐藤さんに渡し、ぼくはホールの仕事に戻った。ぼくが厨房に立って15分も経っていない。

でも、正直ほっとしていた。

「4番テーブルです。お願いします」

パティシエの山ちゃん(当時25歳の女性)が、パフェとホットコーヒーをトレイにのせた。山ちゃんはそう言うと、ぼくの目も見ずに、次のオーダーにとりかかった。

 

山ちゃんは、怒るととても怖かった。

無言の怒り。カミソリのような一言。冷たい空気。その店のスタッフの中で一番年下だったけれど、オーナーでさえ、彼女の怒りをなだめるすべを知らなかった。そして、彼女は今、ぼくの厨房さばきに対して、確実にいらだっていた。

でも、これからその山ちゃんとぼくが、この喫茶店のメインの2人になるのだ。やるしかない。

 

それは、時間との戦いだった。

時間よりも早く、時間よりも正確に、自分の手を速く動かすこと。

サンドイッチと、カレーと、パフェと、ホットコーヒーと、アイスコーヒーのオーダーが一つのテーブルに同時に入る。どれを一番先に作り始めたら、全てのオーダーを同時に一つのテーブルに持っていくことができるのか? それを瞬時に即決し、迷いは捨てて調理していく。もちろん、ほかのテーブルのオーダーも同時に進んでいる。

後戻りはあり得ない。

 

あっと言う間に6カ月が経ち、佐藤さんはお店を辞めた。

店には、ぼくと山ちゃんと新人の新井くんが残った。

 

毎日が失敗の連続だった。

パンをオーブンの下に落とし、カレーのルーを焦がし、山ちゃんが作ったパフェのクッキーを無駄に割った。そのたび、山ちゃんの表情がくもった。最初の方は「大丈夫です! 頑張りましょう」という言葉をくれたが、時間が経つにつれて、その言葉はなくなっていく。新人の新井くんが、不安げにぼくを見ている。

 

一番苦手だったのは「パスタ」だった。

パスタなんかこの世からなくなればいいのに、とさえ思った。9分間の拘束時間。ほとんどの調理は少しづつ手を放して同時進行することができる。カレーのルーに火が通ったら、別のものを火にかければいいし、パフェでさえ、準備したアイスを冷凍庫に戻せば、再度組み立てが可能だ。でも、パスタは違う。一度沸騰した鍋にパスタを入れてしまったら最後。9分間で乾麺に火が入っていくことは、誰にも止められない。

 

逃げ場がない状態で、ぼくは覚悟を決めた。

できないことは、できない、と認めよう。でも、気持ちで逃げることはやめよう。この店は、もうぼくの店なんだ。ぼくがお客様に喜びを提供するんだ。もし、ご迷惑をおかけする事態になってしまっても、正直に謝ろう。そして、それが解決できる方法を見つけて、実行しよう。ぼくにはそれができる。

 

毎日、情けない思いを味わった。

山ちゃんにオーダーを横取りされたり、入ったばかりの新井くんにフォローされたりした。調理者としての非効率性、完成品の平均的クオリティの低さ、作業上のチームワークのまずさ。それに対抗できる第一歩は、ぼくはできる、と自分自身に言い続けることだった。事実上、それしかなかった。

 

恐怖心を隠さずに、受け止めて、具体的に動くこと。

いまどきだれでも聞いたことがある、ありふれた、基本的な心構え。

そして、それを一瞬一瞬、愚直に行った。

 

お客様に喜びを提供すること。

ぼくは、気持ちの上で誰にも負けないことを心掛けた。

お客さまの一人ひとりに、心を込めて、大きな声で、またいらしてください、という気持ちを込めて、

「ありがとうございました!」

と言った。

各メニューの原価率を出して、お客様に提供できる最大限の量と時間を、ひとつひとつの料理に費やした。

40種類以上もある店内の植物の水やりや、見えないところの掃除と整理を徹底した。

山ちゃんと新井くんへの仕込み状況確認と、細かな声がけをこまめに行った。

 

佐藤さんがいなくなって1か月目は、本当に大変だった。

3カ月が過ぎると、忙しいときのオーダーの組み立て方が分かってきた。

6カ月が経つころには、仕込みとオーダーの両立ができるようになった。山ちゃんとも呼吸を合わせて、オーダーを組み立てていくことができるようになった。山ちゃんが何を考えているかさえ、ある程度分かるようになった。

 

ぼくは、自分が強くなったように感じた。

 

もう、パスタさえ怖くなかった。
むしろ、それは得意分野にさえなっていた。
9分間のゆで時間の間に行うこと。オリーブオイルとゆで汁を乳化(油と水分を一体化)させる。仕込んでおいたソースを加えて火を通しておく。あらかじめカットした野菜をパスタ鍋に入れ、適切な時間ですくい上げ、ソースの上に。皿は湯せんしておく。ラスト1.5分にパスタを鍋から取り出す。フライパンにパスタとオリーブオイルを加えると、ソースとパスタを一気に絡めてすべてをなじませる。

温めておいたお皿にきれいに盛り付け、ホールの新井くんへ合図をおくる。
お客様の目の前にたどり着くときが、ゆで時間のちょうど9分。余熱がパスタの芯に少しづつ、確実に侵入していく。このタイミングがアルデンテの食感が楽しめるベストの瞬間。

技術的にぼくができることは、そこまでだった。
ここまで来たら初めて、ぼくはパスタの神様にお願いする。
お客様が「うわーっ、おいしそう!早く食べよう!」
と言って、それまで熱中していたおしゃべりを中断して、パスタを一口食べてくれるように、と。
「ベストの状態のパスタをできるだけ早くお客様が口に運んでくれること」それを祈るしか、ぼくに残された行為はなかった。

そして、その時が訪れる。
さっきまで、あんなにお話に熱中していたお客様が
「おいしそう!」
と言い、パスタを食べてくださる。そして、
「おいしい!」
と言ってくださる。
ぼくはそこで初めて、自分が「パスタの神様に祈るためのパスポート申請が受理された」ことを知る。

お客様に最善の料理とサービスを提供し続ける覚悟。
それを日々更新し続けていると、おのずと料理人は神様に祈ることを覚える。

今日も、全ての街のパスタ屋さんに、パスタの神様が訪れますように。

《終わり》