失われた言葉で書く

これは2018年に参加していたライティングゼミで、書くことについて初めて書いた文章です。

 

  1. 見たこともない不思議な景色
  2. 客観的な正しさなんてどこにもないのに
  3. アルゼンチンのポルトガル語の学校で
  4. ややこしい自分を自覚する方法
  5. 社会的な言葉として機能させるところ

 

1.見たこともない不思議な景色

1990年、8月。
過食を繰り返す10才の僕は、ついに小学校に行かなくなりました。

中学校では、何とか「それ」から逃げ切ったと思ったのです。
でも、思い過ごしでした。

 

1995年、4月。
僕は入学して8日目の高校を退学します。

そこは、見たこともない不思議な景色が広がっていました。

家の一階では両親が激しく喧嘩をしていて、僕はそれを嬉しく思っているのです。
そして、頭の中にはいつの間にか2人の人がいて、それぞれはっきりとしゃべっているのでした。

1人は僕の頭の上の方にいました。
考える速度が速く、論理的で、批判的な人でした。

もう1人は、僕の頭の下の方にいました。
まるで言葉を憶えたばかりの2才の子どものように、ゆっくりと考え、ゆっくりと決断しました。

1995年、4月。
僕は、その二人のあいだにいたのです。

 

2.客観的な正しさなんてどこにもないのに

そして気がついたら「頭の中で映像を想像すること」ができなくなっていました。テレビや映画を見ると、頭が痛くなりました。

「頭の中で映像を想像することができないこと」は、想像以上に(想像できなかったわけですが)生きることを難しくしました。

一番つらかったことは、生きることの基準を「客観的な正しさ」にしていたことでした。
まるで「頭の中で映像を想像することができないこと」の揺り戻しのように。

客観的な正しさなんて、どこにもないのに。

 

「映像を想像することができない15才の青年」が、生きることの基準をどこにもない「客観的な正しさ」と設定して、のちの23年間を生きていくこと。

 

どうなるでしょう?

そこからはほとんど、愉快な話は生まれません。

 

具体的には「いくつもの困難を一緒に乗り越えて、仲良くなった親友」と、取り返しのつかない別れ方をするようになります。そしてそれを繰り返す。

なぜなら「自分は客観的に正しい」と信じずには生きていけないから。
たとえ、それが間違っているとどこかで感じていても。

 

 

3.アルゼンチンのポルトガル語の学校で

10年後。

2005年。
ぼくはまだ「映像を想像することができない25才の青年」でした。
そして、アルゼンチンに住んでいて、ポルトガル語の学校に通っていました。

あるときぼくは、ブラジル出身の30代の女の先生に聞きました。

ぼくは「愛」という言葉の意味がわからない。
なぜなら「愛」という言葉は外国からやってきたものだから。

すると、彼女は口を閉じました。
笑顔のまま。
少し悲しそうに。

2つ隣の席に座る60代の白髪の男性も、同じような表情をしていました。
そして言いました。

「愛」なんてただの言葉だよ。
自然に感じるものさ。
それはアルゼンチンでも、ブラジルでも、日本でも、今も昔も変わらないと思うよ。

ブラジル出身の先生は、そっとうなずきました。
まるで、ぼくを傷つけないように。

ぼくは、自分が遠くにいるように感じました。
日本の裏側のアルゼンチンにいたのですが、さらにそこから遠い場所にいるみたいでした。

 

 

4.ややこしい自分を自覚する方法

アルゼンチンから13年後。

2018年。
15才からの23年間、僕は言葉を「自分に対して、世の中の成り立ちを説明するため」に、使ってきました。

ぼくの文章のターゲットは、自覚的に「自分」と設定されていました。

 

喫茶店で働いているとき、先輩の佐藤さんが言いました。
「島津さんは、歩く教科書みたいですね」

webデザイン会社で働いているとき、グラフィックデザイナーの福島さんが言いました。
「島津さんは教科書みたいな文章を書きますね」

それには心当たりがありました。

なぜなら、15才から言語的なハンディキャプを抱え、普通に社会に出て、普通に日本語を話し、普通に稼ぐためには、必死で「自分に対して、自分が説明する」必要があったからです。

「15才のときの頭の中の2人」は、以前ほどはっきりと話さなくはなりましたが、たしかにずっと残っているのです。「頭の上の方にいた速い人」と連絡を取ることを、15才のぼくは早々に諦めました。

そして、「頭の下の方にいる人」に対して、ひとつひとつゆっくりと説明をして、生きてきました。

たとえ話でもなんでもなく、本当にそうして生きてきました。

 

だからぼくは、自分が学んだことであれば、すぐに人に教えることができます。
なぜなら、もうすでに「一番理解力が少ない頭の中の自分」に対して、繰り返し行ってきた説明を終えているから。

でも、分からないことは本当にわかりません。
誰がどんなにうまく説明してくれても、ダメです。
自分の言葉を使って「一番理解力が少ない頭の中の自分」に対して説明をしないと、決して理解に届きません。

 

そう。
ややこしい。

 

そのややこしい自分を自覚する方法が「書くこと」でした。

 

愛がわからないときも、
愛を感じるようになったときも、
ぼくはずっと書いてきました。

 

5.社会的な言葉として機能させるところ

2018年、6月。
自分以外の方々へ向けて文章をきました。

それは、ぼくにとってはひとつの達成でした。

読者の数や反応はではなく、多くの読者がいる場所に自分が参加できるようになった個人的な回復自体が。

なぜなら、ぼくは「言葉を失った者」として15才からの23年間を生き残ってきたから。

 

自分のためだけに使ってきた言葉を
社会的な言葉として機能させるところまで
自分はたどり着いたのだと。

 

15才の「言葉を失った者」に対して、
23年後の「生き残ってきた者」はこう言います。

 

失敗の数や、失ったものの数が多いこと。

 

それを誇りに思える日がやってきます。

そして、あなたの「失われた言葉」が響く日がやってくる。

だから、今日という日をもう一度、新たな失敗に向かって歩いてください。

《終り》