希望の朝の迎え方(無口な少年が百人一首の翻訳プロセスを語るようになるまで)

11月の東京の朝。

 

「とものり君はどうして学校を休んでいいんですか?」

小学6年生の教室前の廊下。

ぼくは3時間目と4時間目の間の休み時間に教室へ向かっている。

教室のみんながぼくについて話している声が届く。

「どうしてとものり君は学校に来ないんですか?」

ぼくは扉の前に立ち止まり、同級生たちが先生に言っていることをじっと聞く。

でも、いつまでも扉の前に立っているわけにもいかない。

ガラガラと木の扉を引き、教室に入る。

同級生たちの視線がぼくの体に刺さる。

 

 

先生は彼らの真っ当な質問にどのように答えたのだろう?

まったく思い出せない。

もしぼくが先生の立場であっても、どう答えたらいのか分からない。

40才になった今でも。

 

 

ぼくは小学4年生から6年生の2年間、学校をほとんど休んだ。

家族はそんな姿を見て失望し、同級生はぼくの家の前を過ぎるたびに、首をかしげ、気が向くと悪口を言って去った。

まず、4年生の時に学校を1年間休んだ。

その間に、ぼくの声は低くなり、髭が生え、体重は10kg減り、身長は10cm以上伸びた。

1年ぶりに学校に登校すると、クラスの女の子が言った。

「おめえ、誰だ?」

と。

 

 

そのようにして、ぼくは無口な少年になった。ぼくはずっと自分の低い声と話し方が好きになれなかった。

 

 

やっと合格した高校も7日で辞めた。

思考が分裂し、記憶が固まった。

部屋にこもり、鶴見俊輔や埴谷雄高を読み、精神を保った。

家庭は体育館の床のように冷たく、その視線は1月の雪国の路肩のように凍っていた。

浪人し、全寮制の高校に行くことで、ぼくは家から離れることを選んだ。

 

 

迷った末に入学した大学では、一日中いくつもの外国語辞典を読んで過ごした。

誰とも話さない暮らし。

これで、自分の低い声を聞くこともない。

4年間ずっと勉強したにも関わらず、ぼくはまったく外国語を離せなかった。

それどころか、日本語を聞くことも、日本語で考えることもつらくなっていた。

22才になると詐欺師にだまされ、ぼくと家族は数千万円の借金を抱える。

その頃には、過去の出来事をまったく思い出せなくなっていた。

 

 

状況は、明らかにどんどん悪くなっているように感じられた。

 

 

ぼくはとにかく悔しくて、腹を立てていた。

こんなことばかり起こる人生に対して。

 

 

諦めないこと

生き延びること

立ち直ること

そしていつか、世界の成り立ちを明らかにすること

 

 

そのようにしてぼくは、24才でアルゼンチンに住むことを選ぶ。

約2年半、コルドバに住み、スペイン語を通して、スペイン語、英語、フランス語、ポルトガル語、イタリア語を学んだ。

目的は「成人した人間が母語を介さないでどのように外国語を理解していくのかを知ること」

そして「言葉が心に発生し、かたちを作っていくプロセスを体験すること」

 

 

2007年、外国語を日本語に翻訳するスキルを身につけないまま日本に戻る。

日本語はまだ遠く、手が届かなかった。

 

 

でもぼくは、少しずつ自分が回復していることを知っていた。

誰にも見えない外傷はゆっくりとその深度を失っていた。

 

 

世界中のみんなは、足早にぼくのもとを去っていった。

「おい、とものり。まだそこにいんの?そこで何やってんの?もう先行くよ」

と。

 

 

でももう、そんなことはどうでもよかった。

30才を過ぎてうまく話せなくても、記憶が思い出せなくても、低収入でも、ぼくはこれまで、自分が大切に思うことを守り抜いてきた。

匍匐前進しながら、日々生き抜くことを、生まれてからずっと実践し続けてきた。

それはもうある種の達成じゃないか。

たとえ誰にも何一つ証明できなくても。

 

 

その頃ぼくは妻と知り合い、結婚する。

でも、これがもう一つの始まりだった。

第一子の誕生とともにぼくは、ヘルニアになり、無職になる。

長年属していた飲食業界からの撤退。

職場を次々と変える日々。

ある職場では血を吐くまで働き、別の職場では殴られ、恫喝され、虐げられた。

 

 

 

 

 

こういう人生を求めているからこんなことばかりが起こるのだろうか?

 

 

 

 

少ない時間を見つけて、ぼくは再び「外国語を学ぶこと」「絵を描くこと」そして「文章を書くこと」を再開する。

自分のために。

これまで捨ててきた自分の思いを拾うために。

 

 

 

 

いくつもの季節が過ぎた。

 

 

 

 

2018年の秋の日、ある人がぼくの文章を読む。

その女性は別の何かをずっと求めていて、ぼくの文章に何かを感じ、一緒にやりたいことがあるとぼくに伝える。

公園の砂場で新しいおもちゃを手にした子どもたちのように。

そして2人は新しい何かを始める。

彼女は華やかに、ぼくはひっそりと。

 

 

2020年11月最後の日曜日。

午後4時過ぎ。

港区田町駅のホテルの一室。

目の前には買ったばかりのMacBook Pro。

 

「和歌を翻訳するにあたって最も大切なのは、古語を現代日本語に翻訳するプロセスです。それに比べると、現代日本語から英語に翻訳するのは、実は割とテクニカルに解決しやすい。」

ぼくは一人で外国語について話し続けている。

画面にはZoomが展開し、10人以上の人々が向こう側にいて、ぼくの変わった外国語の話を聴いている。

「英語はテリトリー言語なので、まずは動詞を見つけることが大事です。また、英語は責任の所在を明確にする言語なので、主語と目的語を必要とします。」

「山形弁でyes(はい)って何ていうか知っていますか?」

「山形弁でYes(はい)って んだ っていうんです。山形弁でNo(いいえ)は んね。普通はnの音って否定の音なんです。でも、否定も肯定も両方の言葉が、同じnの音から始まるってすごくないですか?」

「4才の子どもは、多くの言葉の意味がわからない。にも関わらず世界を理解します。ぼくは彼らの理解の仕方がとても好きで、尊敬しています。」

「意味がある状態と意味がない状態の間にいる感覚。それは音だったり歌に近かったりするんですが、その状態にいることが、ぼくはとても気持ちいい。」

「ぼくにとって、言葉には意味がなくても全然いいいんです。異なる音声体系の言語間を行き来して、音を聴いているだけで、もう十分気持ちがいいんです。」

 

それはオンラインのトークイベント。

百人一首の翻訳プロセスと複数言語の往復についてぼくは話している。

 

みんなは聴いているのだろうか?

分からない。

とにかくぼくは夢中になって言葉の話をしている。

これまでになく低い声で。

 

 

話を終え、画面に目をうつす。

するとそこには、懐かしい初対面の方々がいて、ぼくを見ながら深く笑っていた。

 

 

 

 

このような長いプロセスを経てぼくはやっと、希望の朝がそこまで来ていることに気が付く。

それを迎える準備ができたことを知る。

 

 

満月が輝く夜明け前。

夜行バスで帰宅すると、机の上に2枚の絵が置かれていた。

それは、娘と息子が描いた絵で、髭を生やしたぼくが笑っていた。

 

 

※この文章を、オンラインイベントを開催してくださった遠藤朝恵さん、大場安希子さん、オンラインイベントに参加してくださった方々、支えてくれた家族、そして、ぼくを生んでくれた母へ捧げます。深い感謝とともに。