2006年、ウルグアイのモンテビデオに行きました。
当時、そのことについて文章を書いていました。
下記は、その文章です。
2006年のモンテビデオの中華料理屋
コルドバ市のバスターミナルでモンテビデオ行きのバスに乗る。15時間するとモンテビデオに到着する。
あらかじめ地図で調べておいたホテル「イデアル」に徒歩で移動。
30分程で到着。扉を開け、フロントへ向かう。シングルルームはすでに満席だという。仕方なく、ツインの部屋に泊まることにする。これから別のホテルを探すには疲れている。
午後5時。鍵を借り、部屋へ入る。汚れた服を着替え、荷物を整理して、ベッドで少し眠る。
目覚めると、午後8時になっている。テレビをつける。日本のアニメーション映画がスペイン語の字幕で放送されている。
僕はフロントへ行く。そこにいる50代くらいの男性に鍵を渡し、ホテルを出る。
数ブロック離れたところにある中華料理屋を目指す。
モンテビデオの大通り。
大勢の人々が車道を埋め尽くし、仮装行列をしている。古びたオレンジ色の街灯の下で、太鼓を叩き、歌い、踊っている。どういうわけか、彼らはあまり楽しそうに見えない。ひっそりとそれを終わらせようとしているようにみえる。
大通りを離れる。歩行者が少なくなる。
中華料理屋を見つける。「大中国飯店」。ガラス越しに細長い店内が見える。客はいない。厨房に一番近いテーブルに40代後半の夫婦と、10才くらいの女の子が座っている。彼らは食事をしている。通りの反対側を見てみると、そこには、大きな建物の中華料理店がある。大勢の客で賑わっている。僕は、小さくて客のいない「大中国飯店」に入る。
入り口から2番目のテーブルの席に座る。奥にいた妻は、メニューが書かれた紙を持ってくる。スペイン語と中国語で書かれた料理名。僕は、焼きそばと炒飯を注文する。すると、妻は驚き、忠告する。
「あなた、それ、すごい量よ。こんなにあるから」
そして、お皿に乗った炒飯の量を両手で再現する。
僕が、焼きそばと餃子スープに変更すると、妻は安心し、メニューの紙を持ち、夫に向かって叫ぶ。
「焼きそばと餃子スープ!」
夫は、手に持っていた箸を皿に置き、厨房へ向かう。夫は眼鏡をかけている。
妻が僕のテーブルにミネラルウォーターとグラスを持ってくる。
娘は、食事を終えるとノートを取り出し、何かを書き始める。
店内から通りを眺める。人はほとんど通らない。
焼きそばと餃子スープを食べる。おいしい。薄い味付け。ゆっくり食べる。
店内の奥では、夫婦と娘がテレビを見ている。
BGMのない中国のドラマ。そこに登場する役者達の声は、とても静かで落ち着いている。
この店内に音楽は流れていない。
落ち着いた役者の中国語の台詞と、僕が使う箸の音が店内に響く。夫婦と娘は黙って、そのドラマを見る。
ドラマが終わる。
夫はDVDプレーヤーをいじる。テレビ画面が暗くなる。娘は再びノートに何かを書き始める。夫と妻は食器を片付ける。
意図的なストーリーを作らないこと
当時ぼくが文章を作るときに意識していたこと。
それは、
・事実を書くこと
・対象に対して、常に同じ距離をとること
・感情も、客観的事実も、同じサイズで記述すること
・判断しないこと
・意図的なストーリーを作らないこと
20代のぼくは、このようにして、文章を書いていました。
事実を事実として記述することが、当時のぼくの主な目的でした。
特に「意図的なストーリーを作らないこと」
このことが、とても大事に思えていたのです。
基本的には、今も同じように文章を書いています。