
1990年、8月。
過食を繰り返す10才の僕は、ついに小学校に行かなくなりました。
中学校では、何とか「それ」から逃げ切ったと思ったのです。
でも、思い過ごしでした。
1995年、4月。
僕は入学して8日目の高校を退学します。
そこは、見たこともない不思議な景色が広がっていました。
家の一階では両親が激しく喧嘩をしていて、僕はそれを嬉しく思っているのです。
そして、頭の中にはいつの間にか2人の人がいて、それぞれはっきりとしゃべっているのでした。
1人は僕の頭の上の方にいました。
考える速度が速く、論理的で、批判的な人でした。
もう1人は、僕の頭の下の方にいました。
まるで言葉を憶えたばかりの2才の子どものように、ゆっくりと考え、ゆっくりと決断しました。
1995年、4月。
僕は、その二人のあいだにいて、放心していました。
まず「頭の中で映像を想像すること」ができなくなりました。テレビや映画を見ると、頭が痛い。
そして「記憶と思い出」の領域が機能不全を起こし始め、同時に「感情」の分離が起こります。
当然、それらの症状は、生きることを難しくしました。
一番つらかったことは、生きることの基準を「客観的な正しさ」にしていたことでした。
客観的な正しさというものなど、どこにもないのにもかかわらず。
感情と記憶と視覚的想像力が分離したまま「客観的な正しさ」を求め、生きる。
どうなるでしょう?
愉快な結論は生まれません。
具体的には「いくつもの困難を一緒に乗り越えて、仲良くなった人々」と、取り返しのつかない別れ方をするようになります。そしてそれを繰り返す。
なぜなら「自分は客観的に正しい」と信じずには生きていけないから。
たとえ、それが間違っているとどこかで感じていても。
2005年。
当時も、感情と記憶と視覚的想像力は分離していました。
そして、アルゼンチンに住み、ポルトガル語の学校に通っていました。
あるときぼくは、ブラジル出身の30代の女の先生に聞きました。
ぼくは「愛」という言葉の意味がわからない。
なぜなら「愛」という言葉は外国からやってきたものだから。
すると、彼女は口を閉じました。
笑顔のまま。
少し悲しそうに。
2つ隣の席に座る60代の白髪の男性がそれを見て、言いました。
「愛」なんてただの言葉だよ。
自然に感じるものさ。
それはアルゼンチンでも、ブラジルでも、日本でも、今も昔も変わらないと思うよ。
ブラジル出身の先生は、そっとうなずきました。
おそらく、ぼくを傷つけないように。
ぼくは、自分が遠くにいるように感じました。
日本の裏側のアルゼンチンにいたけれど、さらにそこから遠い場所にいるようでした。
喫茶店で働いているとき、先輩のSさんが言いました。
「島津さんは、歩く教科書みたいですね」
WEBデザイン会社で働いているとき、グラフィックデザイナーのFさんが言いました。
「島津さんは教科書みたいな文章を書きますね」
それには心当たりがありました。
2018年。
15才からの23年間、僕は言葉を「自分に対して、世の中の成り立ちを説明するため」に、使ってきました。
「15才のときの頭の中の2人」は、以前ほどはっきりと話さなくはなりましたが、たしかにずっと残っているのです。「頭の上の方にいた速い人」と連絡を取ることを、15才のぼくは早々に諦めました。
そして、「頭の下の方にいる人」に対して、ひとつひとつゆっくりと説明をして、生きてきました。
15才から言語的なハンディキャプを抱え、普通に社会に出て、普通に日本語を話し、普通に稼ぐためには、必死で「自分に対して、自分が説明する」必要があったからです。
ぼくの文章のターゲットは、常に自分で、他者は含まれていませんでした。
独自の用法で特殊に発した言語体系を、日々メンテナンスしたうえで、やっと日常に支障なく生きることができる。それだけでも、大変な労力でした。
その特殊な言語体系を、他者が理解できる用法で使用することは、まったく別の作業です。
たとえ話でもなんでもなく、本当にそうして生きてきました。
だからぼくは、自分が学んだことであれば、すぐに人に教えることができます。
なぜなら、もうすでに「一番理解力が少ない頭の中の自分」に対して、繰り返し行ってきた説明を終えているから。
でも、分からないことは本当にわかりません。
誰がどんなにうまく説明してくれても、ダメです。
自分の言葉を使って「一番理解力が少ない頭の中の自分」に対して説明をしないと、決して理解に届かないのです。
入り組んでいる。
その入り組んでいる自分を自覚する方法が「書くこと」でした。
愛がわからないときも、
愛を感じるようになったときも、
ぼくはずっと書いてきました。
2018年、6月。
自分以外の方々へ向けて文章をきました。
それは、ぼくにとってはひとつの達成でした。
読者の数や反応ではなく、多くの読者がいる場所に自分が参加できるようになった内的回復が。
なぜなら、ぼくは「言葉を失った者」として、15才からの23年間を生き残ってきたから。
自分のためだけに使ってきた言葉を、社会的な言葉として機能させるところまで、自分はたどり着いたのだと。
「言葉を失った者」15才の少年に対して、
23年後の「生き残った者」が言えることがあるのであれば。
失敗の数や、失ったものの数が多いこと。
それが誇りに変わる日に辿り着くことが、あなたにはできる。
そして、あなたの「失われた言葉」が響く時へも。
だから、昨日と同じように見える毎日でも、諦めることはない。
そう、そのままで大丈夫。
あなたはよくやっていることを、私は知っているから。