娘が小学校から帰ると、母はベッドで眠っていた。
母はうなされていた。
娘が台所のシンクを見ると、汚れた食器が積まれていた。
ベランダの洗濯物は干されたままだった。
浴槽は空で、玄関の明かりも消えていた。
台所の蛇口から、水滴が滴り落ちた。
小さな音が、家の中に響いた。
母は、娘に気づかなかった。
娘は、母親の額に手を当てた。とても熱い。
娘は母親が起きるのを待った。食器を洗い、洗濯物を取り込み、畳んだ。
そして、母が見える場所に移動し、机に教科書を広げ、学校の宿題を始めた。
娘は宿題を終えても、母親は起きなかった。
娘は冷蔵庫からジュースを取り出し、テレビをつけた。
父はなかなか帰ってこなかった。
娘はテレビを見るのをやめた。
明日、学校へ行く準備をした。明日着る服を選んで、棚の上に置いた。
娘は母が眠る部屋に行き、布団を広げ、目を閉じた。
でも、いつまでたっても眠れなかった。
父が帰ってきた。
娘は、帰ってきてからのことを父に話した。
父は、母のところへ行き、声をかけた。
母は眼を覚まし、父と話をした。
母は立ち上がり、トイレに行った。
その後、服を着替え、薬を一袋と水を沢山飲み、またベッドに向かった。
ごめんね。今日はお父さんと二人で、外でご飯を食べてきてくれる?
母親は小さい声で言った。
目は潤み、肌は赤い。
娘は父と2人で車に乗り、街へ出た。
彼らの家は山奥の小さな集落にあった。
車は細い道路をゆっくりと通過した。田畑や空き地、無造作に野草が生えた土地。
一瞬照らされる野原には、サルたちがいて、こちらを見ていた。
車のライトに照らされた彼らの目が光る。
お母さんは大丈夫?
と娘は父に質問した。
ああ、大丈夫だよ。一晩寝れば治るよ。
と父は答えた。
彼女はずっと窓の外を見ていた。
通り過ぎる家から漏れる光が、いつもより明るく見えた。
見慣れた土地の夜景が、知らない外国のように思えた。
父は明日のことを考えていた。
二人はどこに行くのか、決めていなかった。
相談もなかった。
父はファミリーレストランの駐車場に車を停めた。
いつも三人で行く店。
平日の夜、店内に客は少ない。
若いカップルが一組と、中年夫婦が一組。どちらももう食事を終えている。
中年夫婦はコーヒーカップとチーズケーキを挟み、真剣な表情で話をしている。口数は多く、感情は少ない。
若いカップルは席を立ち、レジへ向かった。
金髪でシャツもパンツも黒色の痩せた女性。キャップを被り眉毛を薄くカットしている男性。女性のほうが男性より10センチ以上背が高く、男性のほうが女性より声が高かった。
ありがとう、という男の高い声が店内に響いた。
女は挨拶もせず、男より先に店を出ていた。
扉が閉まる。
父と娘は、いつもの道路に面した窓側の席に座った。
若い女性のウエイトレスがやって来た。水の入ったコップと、メニューを2人に渡した。
いらっしゃいませ。お決まりになりましたらお呼び下さい。
とウエイトレスは言った。愛嬌のある笑顔。
ウエイトレスは高校生で、平日だけ夕方から閉店までバイトをしていた。利発で機転が利く。身長は150センチくらい。少し太っていてハリのある肌。
お客さんが少ないより、忙しいほうがいい、とウエイトレスは思った。
父と娘は何を食べるかを選んだ。会話はない。
娘は、お母さんがいたら食後にケーキセットを頼むのに、と思った。お母さんがいたら、お母さんは何食べる?って聞くのに。
父が机の上のボタンを押す。ウエイトレスが来る。
お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします。
ウエイトレスは愛嬌のある笑顔で言う。
父はチーズハンバーグセット・ライス大盛りを、娘はミートソーススパゲティを頼む。
お母さんがいたら、パスタセットにして、サラダとスープも頼むのに。
父は、焼きたてのハンバーグを一口食べた瞬間、自分が空腹だったことに気がついた。
娘は、ミートソーススパゲティを食べた。
トマトソースの酸味、大きめに刻まれた牛ひき肉、コンソメと香辛料の香り。
パスタとソースにパルメザンチーズが絡む。
美味しいか?
と父が聞いた。
うん。
と娘は言った。
二人は無言で食事をした。
クラシック音楽が鳴っている。
暖かい料理は、彼らの不安を減らし、思考をゆるませた。
二人だけで外食をするのは初めてだった。しかも、それが客の少ない平日の夜のファミリーレストランだなんて。
娘の父は、口数が少ない人だった。
彼は言いたいことがあって我慢しているのではなかった。
そうではなく、思ったり感じたことを言葉にしたり、それを他人に伝えることの必要性を感じない人だった。
だったら、野原の向こうから私たちを見るサルと何が違うのだろう、と娘は思った。
でも、娘自身も口数が少ないタイプの人間だということを知るには、娘にはもう少し時間が必要だった。
よくしゃべる中年夫婦は、店を出た。
テーブルには、ケーキセットの皿。
ウエイトレスがテーブルから皿を回収した。
客席には彼ら以外に誰もいくなった。
店内は急に静かになった。
二人は道路を走る車を見た。
道路の向こう側に、大きな書店兼CDショップが見えた。
店内に人は少なく、駐車場に車ははほとんどなかった。
ウォーターグラスの氷が溶け、表面から水滴が落ちた。
グラスの底の水溜まりが少しずつ大きくなった。
ウエイトレスは、乾いたトレイを重ね、カトラリーを運んだ。
客が少なかったので、作業はすぐに終わった。
ウエイトレスは二人を見て「年を取った夫婦みたい」と思った。
2人の間に「話すべきこと」はだいぶ前にもうなくなってしまったように見える。
そのとき以来、ウエイトレスは、彼らを「若い老夫婦」と呼んだ。
父は席を立ち、トイレに行った。
娘は外を見た。
走る車はまばらで、小さな街は眠ろうとしている。
父がトイレから帰ってきて、席に座った。
カモシカを見たことはある?
と父は言った。
娘は頭を横に振り、ないよ、と言った。
カモシカは美しいんだ。目、顔、首、背中、腹、足、体の動き。
と父は言った。
去年の春、朝早く起きて、川原を散歩してたら、向かいの草むらからカモシカが出てきた。
母親と子どもが一頭ずつ。ぼくは立ち止まって、体を隠した。彼らは草を食べ、川の水を飲んだ。
2頭はゆっくり歩き、来た所と同じ繁みへ帰っていった。
そして、またカモシカのいない川原になった。
川が流れ、風が吹き、木の葉や草むらが音を立てた。
どうして父は急にカモシカの話を始めたのだろう、と娘は思った。
そして話の続きを待った。
あるいは話の結論、教訓を。
カモシカの話はもう終わっていた。
それだけではなく、父は口を開くことを止めていた。
父はもう、感情と意志から離れ、眠る前の街を眺めていた。
娘は父の顔を見て、考える。
話し終わったことで満足しているようにも見えないな。
何かを教えたかったわけでもなさそう。
もともと、気持ちを分かってほしいというような人ではないし。
沈黙を埋めるためでもないだろうな。
沈黙を怖がる人じゃないしね。
きっと父は、さっきトイレに行った時、偶然「去年の春のカモシカ」のことを思い出したんだろうな。
それをそのまま私に伝えている。
きっとそれだけ。
理由はない。
思い出がふっと出てくるのは分かるけど。
でもそれは、会話に入れるにしては、そのまますぎるんじゃない。
だから、今ここで話す理由とか、聞き手が私じゃないといけない、という理由がないように思えるんだ。
つまり、私は父と一緒にいるのに離れているように感じている。
父が私に話しかければ話しかけるほど、私は父から遠ざかっていくように感じる。
なんでだろう。
娘は嫌な感情を抱いていた。
それは、父の習慣への適切な対応がなかなか見つからないことに対する静かな苛立ちだった。
娘は疲れを感じていることに気がついた。
目を閉じると、呼吸は規則的になった。
眠りはすぐにやってきた。
ラストオーダーの時間が近づく。
暇だと疲れるし時間が経つのが遅くて困る、と男の調理人は厨房で思った。
男はブラシを握り、大きな音を立てて床を洗い始めた。
音は店内に漏れた。
「若い老夫婦」に届かないといいけど、とウエイトレスは思った。
でも、2人はそれぞれの沈黙の中にいた。
そして、そこに何かの音が届くには、信じられないほどの時間が必要だった。