コーヒーが嫌いだったころのこと

僕はコーヒーが嫌いだった。
とても嫌いだった。


なぜあんな苦いものをそのまま飲まなくてはならないのだろう?

でも、世の中の多くの人たちは、コーヒーが大好きだった。

きっかけは、喫茶店でウエイターとして働いていたとき、オーナーがおざなりに、仕方なしにコーヒー豆の焙煎をしているように見えたこと。コーヒー豆がかわいそう、と思ったこと。

そして、コーヒーの味が好きになるのは、いちばん最後だった。

僕はその喫茶店で、コーヒー豆の焙煎をまかされることになった。

「そんなに言うなら、やってみたらいいよ」

とオーナーは言った。

僕以外のスタッフは全員、コーヒーの焙煎が嫌いだった。そして、嫌いなことを口にしなかった。それは、店を閉めて、掃除と仕込みと会計を終えてからでないと、できない作業だったから。さらに、焙煎は1時間から2時間はかかった。

僕だってそうだ。

一日中立ちっぱなしでホールを走り回り、笑顔でお客様とはなし、休憩時間も少ない。コーヒー豆の焙煎は、喫茶店で働くスタッフから好かれる要素が一つもなかった。僕は怒っていたのかもしれない。遠いところから日本という国に持ってこられた、おいしくなる可能性のある食材が、目の前でどんどんまずく加工されている、という状況に。

もちろん、コーヒー豆の焙煎はとてもむずかしかった。本を読みあさり、喫茶店のコーヒーを飲み歩き、自分の焙煎を分析した。まわりのスタッフは「すごいですね」とは言ってくれたが、決して手伝ってはくれなかった。

だが僕は、そんなことはどうでもよくなっていた。

足早に帰る彼らの背中を見ながら、僕は一人でコーヒーの味を分析した。たくさんのコーヒーの味を知った僕は、「よいコーヒー」がこの世に生まれることへの人間の努力や発想に熱中してしまっていた。あらゆる国のコーヒー好きの人たちが、いろいろな方法で「良いコーヒー」を作ろうとしていた。そして僕も、一度も会ったことがない彼らの一員であることに気持ちよさを感じてしまっていた。

ある日、僕は「雑味がないコーヒー」を焙煎することができた。

飲む前に香りがしっかりとあって、飲んだ瞬間、そのコーヒー豆の特徴が全て生かされていることが分かる。口の中の風味はおどろくほど深く、液体を飲みこんだあと、口の中に残る透明な香り。

それは奇跡的な味だった。

そのころ、コーヒーに対して好意を抱いていることに気がついた。


それは、単純な飲み物への気持ちではなかった。そうではなく、土地・農家・シッピングなどのサプライチェーンや、資本主義経済の矛盾を含んだ人間の営み総体を対象とした気持ちだった。この時代を生きる私たちの日常を彩る象徴としてのコーヒーに対する好意だった。

コーヒーは香水に似ている、と僕は思う。
形に残らないから。
そして、記憶にだけ残るから。

「おいしいね」と一言で言われてしまう一杯のコーヒーの裏には、こんな人たちがたくさんいて、今日もそれを楽しんでいる。