翻訳活動の3つの仮説(随時更新)

7か国語が話せるようになれなかったから分かったこと

ぼくは大学でスペイン語スペイン文学科に入りました。
そこで「4年間で7か国語話者になる」という目標を掲げ、独学を進めました。
それは達成できませんでした。

結果、3つの仮説が生まれました。

3つの仮説

1.言語能力の数値化は「個人の表現傾向」と「個人の学習領域」に依存する
2.言語学習には「言語理解のための周辺学習」が必要
3.言語理解には「脳の認識傾向による個体差」があって、それはほとんど先天的

仮説1.言語能力の数値化は「個人の表現傾向」と「個人の学習領域」に依存する

まず、英語を学ぶとき、

Hearing
thinking
Reading
Writing
Speaking
Conversation

のいずれかのインプット/アウトプットに特化せざるをえない。
それは「自分の表現傾向」に依存する。
さらに、完全に個人の興味/関心に依存する「学習領域の違い」がその上のレイヤーとして生まれる。

つまり、
個人の表現傾向
・個人の学習領域

という2つのフィルターを通ったあとでやっと、客観的数値として記録されること。

深く個人に根差した2つのアウトプット形態が、ダイレクトに客観的数値として社会化される。
それは、肉体的にも精神的にもモチベーションを崩す。
苦手意識が生まれる。

という仮説です。

仮説2.言語学習には「言語理解のための周辺学習」が必要

同族の言語であれば、音とイメージの距離は地続きの感覚が残ります。
でも派生言語が全く違う場合、音とイメージの距離が遠すぎるため、言語を包括的に理解する知見が必要ではないか?

という仮説です。

例えば、
言語学概論
音韻論
翻訳プロセス
言語活動の全体像把握
適切な学習順序
学習の量と質
学習マネージメント
コミュニケーション理論
心理学
歴史学

といったテーマが重なる領域の知見が必須なのではないか。
異なる文法に臨む場合はとくに。

仮説3.言語理解には「脳の認識傾向による個体差」があって、それはほとんど先天的

特殊な家庭環境であればあるほど、言語理解の方法はかたよるはずです。

3つの仮説は、
まだ人類は、成人した個人が派生の違う言語を習得するときの、適切な全体像と方法論を持っていないのではないか?

という1つの仮説に集約されました。

おそらく
・性格のセグメント化:性格や属性で分類された各個人
・複数の学習体系:適切な学習体系、ツール
・適切な時間:各個人に見合った適切な接触時間の総合計

が、まだ追求されていない(あるいは、もう存在しているけれど普及していない)のかもしれません。

例えば言語学者クリス・ロンズデールの理論
「2つの間違った思い込み、5つの原則、7つのアクション」のように。

そして、いつも最後に辿り着くのは、

たとえ自分が、先天的な認識個体差によって「言語習得に不得手な認識パターン」をもっていたとしても、それが言語習得を諦める理由にはならない

という結論でした。

どんなに回り道でも、ぼくは自分で言語にアプローチし続ける。
全く前進しなくても。