以下は、世界中のコーヒーを育て焙煎する人たちへ敬意と連帯を込めて書いた文章です。
自宅のキッチンでコーヒーを淹れていると、ぼくはこのような感覚を抱き、世界との関係性を認識します。それはぼくにとって、日常的な水準で世界市民であることを意識するためでもあります。
10代のころ、コーヒーは嫌いな飲み物だった。
「どうしてあんなに苦いものをみんな飲んでいるんだろう?」
あるとき、喫茶店で働いていると、
ぼくは、コーヒー豆の焙煎をまかされることになった。
コーヒー豆の焙煎は、店を閉め、仕込みと掃除を終えてからでないと、できない作業だった。
さらに、焙煎は1時間30分から2時間はかかった。
だからスタッフは全員、焙煎が嫌いだった。
コーヒー豆の焙煎は、むずかしかった。
コーヒーの本が目に映ると、とりあえず手にとって、読んだ。
街中の喫茶店のコーヒーを飲み歩き、分析しノートに書いた。
店に戻り、自分の焙煎を分析した。
さまざまな種類のコーヒー豆を試した。
焙煎度合いを確かめ、感想を求め、お客様が求める最大公約数的なコーヒーの味を探した。
たくさんのコーヒーの味を知った僕は、夢中になっていた。
「よいコーヒー」が、この世に生まれるために行われてきた工夫と、アイデアに。
深夜1時を過ぎて焙煎をすることも普通にあった。
ひとりだった。
でも、全く孤独ではなかった。
むしろ、多くの誰かと一緒にいるような感覚があった。
ひとつひとつのコーヒー豆の中に、よい香りと味を生むプロセスと再現性。
そこに、意図しなかった敬意が発生する。
世界中のコーヒー農場でコーヒーの木を育てる方々へ。
輸送し、焙煎する方々へ。
彼らは今日も、いろいろな方法で「良いコーヒー」の基準をクリアしようとしている。
僕は「一度も会ったことがない、世界中のコーヒーの木を育て、焙煎を愛する人たち」に対して、連帯感を抱くようになった。
ある日、僕は「雑味がないコーヒー」の焙煎に成功する。
淹れた瞬間、部屋中に広がる香り。
口に入れると、コーヒー豆の特徴が全て生かされていることが分かる。
風味は深く広がり、のどを通る液体と、透明な香りがあらわれる。
コーヒーは香水に似ている。
それは、すぐに形を手放し、記憶へ移動する。
世界中の、一杯のコーヒー。
その周囲には、コーヒーに魅せられた人たちがたくさんいて、今日も淡々と焙煎をしている。
彼らに敬意を表し、その同志として、この文章を記します。