思い返すとそれは、
不思議なアパートでした。
壁はひび割れ、
窓の隙間から、
風が、自由に移動していました。
風だけでなく猫たちも、
中庭や洗濯場や屋根の上で、
好きなように過ごしていました。
低い天井の部屋は、
自分が少しだけ大きくなったように思わせました。
春には、玄関のしだれ桜が、歩く人の目を奪い、
夏になると、近くに流れる川の上に、蛍が光りました。
僕は、何者でもありませんでした。
仕事を探すことも、
好きな喫茶店を見つけることにさえ、
時間がかかっていたのですから。
そのアパートに住み始めたとき、僕は1人でした。
そして、引っ越すときは、3人になっていました。
僕と、
奥さんと、
おなかの中の赤ちゃんと。