なぜぼくは、100句の百人一首を翻訳しているのだろう?
なぜぼくは、100句の百人一首を翻訳しているのだろう?
それは、誰よりもぼくが自分自身に問いかけ続けた質問でした。
なぜならぼくは、日本から出たいという願望が強く、実際に24才から27才の2年半、アルゼンチンに住んでいたから。
幼いころからから外国志向だったのです。
100句の百人一首の翻訳は、2018年9月から始まり、2020年4月に終わりました。
世界中でマスク着用がスタンダードになったと同時に、ぼくは百人一首を英語翻訳した人になりました。
全く予期しないまま。
正確な現在地もわからないまま。
2020/11/29(日) 15〜16時の1時間、僕がオンラインイベントに出ることになりました。
じつは、あるデザイナーの方からご依頼を受けて、この1年半ほど百人一首100句の英語翻訳を行っていました。その完成イベントに呼んでいただきました。
WAKA オンラインワークショップ 〜秋の絵合わせ・歌合わせ〜 和歌英訳100歌 コンプリート記念バージョン!!!
※ぼくが参加するトークイベントだけの参加でしたら無料です。ご興味おありでしたらご参加ください。
※今回はその経緯と経験についての記事です。
遠藤さんからのメッセージ「百人一首などの和歌の翻訳は、出来ますか?」
「突然に付かぬことを伺いますが…百人一首などの和歌の翻訳は、出来ますか?」
きっかけは、2018年に参加していたライティングのゼミ。
東京在住の遠藤さんが京都在住のぼくの文章を読んで、声をかけてくれたのです。
遠藤さんとは、東京在住の女性デザイナー。
大学時代に日本文学を専攻し、印刷のグラフィックデザイナーとして東京でキャリアを積んでいました。
ある日、お会いしたこともない遠藤さんからFacebookのメッセンジャーにメッセージが届きます。
「島津さん、翻訳もなさるんですね。日→英でしょうか。突然に付かぬことを伺いますが…百人一首などの和歌の翻訳は、出来ますか?」
と。
そこから、ぼくと和歌の翻訳生活が始まることになります。
遠藤さんは2018年に京都の同時代ギャラリーで和歌の個展を開きます。
ぼくもその作品の英語訳をいくつか翻訳しました。
そして怒涛の2019年に突入します。
忙しい日々の隙間で百人一首を英語に翻訳することは
2019年はとても忙しい1年でした。
会社では残業が増え、終電で帰宅する毎日。
京都大阪間の電車に揺られ、TwitterとnoteとInstagramで情報収集。Googleキーワードプランナーをチェックし、記事の構成案を量産しました。取材に行くたびにOsmo Pocketで動画撮影し、帰りの電車で動画編集。
住んでいる団地では管理組合の役員仕事が待っています。
2つの役の長になってしまったぼくの業務は日に日に膨らみ、週末の時間のほとんどを費やすことになりました。
多少の余った時間で2人の子どもたちと遊ぶころ、体は疲労に包まれている。
そんな日常生活に隙間を見つけ、百人一首を英語に翻訳する日々が1年以上続きました。
なぜぼくは翻訳を続けることができたのか?
和歌の英語翻訳を行うことで、モチベーションが下がることはありませんでした。
それよりは「翻訳」以外の仕事をいかに早く終わらせ、翻訳のための集中力を確保することのほうが大切で、実際はとても難しいことでした。
翻訳のプロセスに深く入り込むこと。
それは、ぼくがずっと求めてきたことでした。
むしろ「必ずこの機会を生かして、日本語との関係性を再構築し、次のステップに進みたい」という意志のほうが強かった。
それが翻訳を続けることができた理由でした。
百人一首の翻訳を続けることで経験的に分かってきた3つの実感
百人一首の翻訳を続けることで、経験的に分かってきたことがあります。
それは3つ。
1. 百人一首の日本語は難しい
2. 和歌の音が素晴らしい
3. 「和歌は外国語なのではないか?」という仮説
ということ。
百人一首の日本語は難しい
1つ目「百人一首の日本語が難しい」。これは単純に「言葉の意味がわからない」ということでした。対策としては、少しずつ調査を重ね、古語の分析を行い、テクニカルにクリアしていくこと。
最寄りの図書館に、思いのほか百人一首に関する書籍があることを知ったのも、このころでした。
何度も同じ本を借り、読み込みました。
和歌の音が素晴らしい
ぼくは幼いころから、日本語の非効率性に対して疑問を持っていました。
大きくなるにつれてその感覚は、小さな苛立ちに変わっていきます。
20才になる頃には、日本語が持つ「子音+母音の連続によって辿り着く、動詞と主体を後回しする構造」に対して、ぼくは明らかに苛立つようになっていました。
ドイツ語のような「徹底した品詞変化システム」
スペイン語のような「動詞変化に主語が含まれる疾走感」
フランス語のような「子音の大胆な無音化と音の繋がり(リエゾン)」
これら「主体と行動と結論を最初に明示するインド・ヨーロッパ言語」と日本語を比較したとき、「日本語の非全体性」に対して、批判のまなざしを持っていました。
※そのようにしてぼくは、アルゼンチン滞在とともに「どうしたらバランスの取れた日本語を作ることができるか」という課題に突入していきます。
百人一首を翻訳している間ぼくは、和歌を何度も口に出して発音しました。
最初は「作り手の意識に近づくこと」ことを意図して発音していたのですが、結果的にそれは、日本語の発音の美しさを確認することにつながりました。
和歌の発音に耳を預けていると、長年の苛立ちは静かに緩和され、受け入れられ、好意的に変化していったのです。
そしてその感覚は、次の実感に続いていきます。
「和歌は現代日本人にとっても外国語なのではないか?」という実感
翻訳を続けていると、2つの実感に包まれることがよくありました。
それは
「海の向こうからやってくる文明と外国語に囲まれているからこそ、自衛的、自律的、独自に作り上げた言葉だったのではないか」という実感。
という実感。
もう一つは
「当時の貧しい人々にとって、和歌はもうほぼ外国語に近かったのではないか」
地位も学問もない庶民にとって、高度な韻を踏む和歌とは文字通り貴族の戯れで、この島のほんの一部の特権階級の人々のみに通用する「ニッチコミュニティの言語」だったのではないか、という実感です。
つまり
・諸外国を意識し、結果的にニッチになった言語
・その結果として国内でニッチになった言語
という2重の実感でした。
そこから
「和歌は現代日本人にとっても外国語なのではないか?」という実感が生まれました(とても個人的に)。
1000年以上前の地球の簡素な時代。
小さな島に住む特定のグループのささやかな生活。
彼らが細々と作り上げる自己定義のための新しい言語。
このような実感とともに、ぼくは百人一首の翻訳を進めました。
2019年にこの島に生活するぼくにとって、それらは明らかな外国語だったのです。
本当の言語は、日常生活の中で流動的に変化し続けているもの
翻訳を続けながら、それまで自分の中で定義していた「日本語の定義」は、少しずつ広がり、深まり、最終的には「現代日本語」という限定した形に落ち着きました。
明治時代以降の日本語制作者が開発した国家言語。
明治時代以前の日本語。
それらはすべて「人工的に(国家的、権力体制側から)作られた言語」であって、そもそも「固定された日本語」などというものは今まで存在したことがない。
本当の言語というものは「常に日常生活の中で流動的に変化し続けているもの」
という境地でした。
百人一首とその翻訳は「1000年以上前の地球への旅」
ぼくにとっての百人一首とその翻訳は「外国語」であり「外国への旅」であり「1000年以上前の地球への旅」です。
24才でブエノスアイレスに立ち、乾燥した空気と熱い日差しに包まれたあの日々。
「百人一首の翻訳の時間」は、それと同じくらいの深さで、40才になったぼくの心にとどまり続けています。
どこにでもあるGoogleスプレッドシートのセル(100行×A~L列)で、今も息づく100句。
そこでは、雨漏りが着物を濡らし、カササギが真夜中の空を飛び、いつまでも実らない恋が1000年以上前の月夜の情景に仮託されています。
ずっと誰かのためだけに何かを行ってきた人の心に眠る「自然で内発的な動機」に向けて
外国志向だったぼくに、日本語のルーツを届けて下さった遠藤さんに感謝いたします。
また、実はお互いの専門領域で話しあったことがない私たち2人が、皆様の前で「デザインと翻訳」について話す場所を設けて下さったことに、喜び、感謝し、その日が迎えられることを待ち望んでいます。
最後に、
かつてのぼくがそうだったように、ずっと誰かのためだけに何かを行ってきた人の心に眠る「自然で内発的な動機」に向けてこの時間を捧げます。
100句の和歌とともに、あなたのご参加を心よりお待ちしております。