絵を描くことについての父と娘の会話

娘と父の対話

「でも、とものり君が描いた新幹線、線路から外れてるからね」

別の小学校に通う子どもの母親が言った言葉でした。
それは、なぜかぼくの耳に届いたのです。

小学6年生の時、ぼくは山形新幹線の絵を描きました。

晴れた空のもと、緑の山の向こうから、
まっ白な山形新幹線が一直線にやってくる

そいういう絵でした。

それは、町で最優秀賞に選ばれました。

そして、ぼくは別の小学校の小学生たちと一緒に、
できたばかりの山形新幹線に乗り、上野動物園に行く、
という賞をもらいました。

その小学生の中の一人の母親が、
「でも、とものり君の新幹線、線路から外れてるからね」
と言ったそうです。

ぼくは直接聞いていないけれど、なぜかその言葉は、
ぼくのもとまで到着しました。

もちろん、
それは悲しかった。

でもね。
ほんとは、賞なんてもらってもうれしくなかったんです。

どうしてだかわかりますか?

どうしてかというと、
ぼくはそのとき、病気で学校をよく休んでいたし、
クラスでいじめられるかどうか、ギリギリの毎日を過ごしていたからです。

すこしでも目立ったら、いじめの標的になりかねない。

思った通り、ぼくは賞をもらったことで
同級生から嫌なことを言われるようになりました。

だから昨日、6才の娘が
「○○くんに、わたしがかいた絵がヘンだって言われて、いややったの」
と言ったとき、ぼくは胸の奥が鈍く動いたのを感じたのです。

娘が夏休みの宿題に描いた絵は、
ディズニーのリトルマーメイドに登場するアリエル
でした。

大きく丸い目
きれいに上に上がる鼻
つきあがるほほ
波のように揺れる髪
細くとがるあご

どれをとっても6才の子どもには
難しい曲線でした。

でも娘は、それをひとりで描き上げました。

とてもかわいいアリエルが紙の上に生まれました。

ぼくは、それを見て
「とてもかわいい」
と言いました。

娘は
「でも、お父さんの方がじょうず」
と言いました。

ぼくは
「たしかにそうかもしれん。お父さんの方が上手かもしれん」
と認めました。

「でも、お父さんは、そんなにかわいくアリエルを描けへんで。頑張ればある程度上手には描ける」

「かわいく描くのはとてもむずかしい。上手とかわいい、はぜんぜん違うしな」

娘は黙って自分が描いたアリエルの絵を見ています。

「そのアリエルはすごくかわいい。ほんとにそこで笑ってるみたいや」

とぼくは言いました。

娘は、分かったような分からないような表情をしていました。

6才の娘が
「○○くんに、わたしがかいた絵がヘンだって言われて、いややったの」

と言ったとき、
ぼくは胸の奥が鈍く動いたのを感じたのですが、
その正体が何なのか、よくわかりませんでした。

わからないまま、
ぼくは娘に、こう言いました。

「多分やけど、その子は、一生懸命絵を描いたことがないんやとおもう」

「絵を描くことがどんなふうにむずかしいか、どんなふうにおもしろいか、まだ知らないんや」

「だから、そんなことをかんたんに言えるんやとおもうで」

娘はうつむいていました。

ぼくは、自分が怒っていることに気がつきました。

でも、
娘の同級生に怒っているわけではないし、
ましてや、
30年近く前の同級生に今さら怒っているわけでもないのです。

そうではなく、
それは

「ぼくにとって絵を描くことがどれほど大切なことか」

それをどこかで知りながら、
いつまでも適当に対応してきた自分自身に怒っているのでした。

こんなに好きなことを
ずっとぼくは、放置してきたのです。

夜の公園の砂場に置き去りにされた
プラスチックのスコップみたいに。

そう、
絵を描くことは
ぼくの人生にとって、本当に大切なこと。

たとえ、これから
お金にも
信用にも
変換されなかったとしても、
それはぼくにとって、大切な意味をもつ行為なのです。

どこかでだれかが
ぼくの幼い画力を笑っても、
それはもう、どうだっていい。

絵を描いている自分は
それだけで、
ほかの誰でもない、取替不可能な、ぼく自身でいられるのだから。

新しいコンテンツを受け取るための登録はこちら。

詳細は、プライバシーポリシーをご覧ください。